エド・サリバン・ショーに出演して・・・
1966年5月
1966年4月11日羽田空港にて





1966年3月28日に「エド・サリバン・ショー」出演のため渡米していたザ・ピーナッツは4月11日、好評を博して帰国。
ショーでは数曲の候補の中から宮川泰氏編曲の「ラヴァー・カンバック・トゥ・ミー」を歌い、スタジオでは万歳を叫ぶ人も出るほどの人気を集めたそうです。

そしてロスアンゼルスに飛び「ダニー・ケイ・ショー」のオーディションを受け合格。出演契約を取っての凱旋帰国となりました。
まず、ピーナッツお二人の会話を読んでください。
そしてこれを読むと当時の二人の心境が凄くよく汲み取れると思います。
私自身子供の頃からザ・ピーナッツの形容詞に「世界の・・・」と付いていることに興味があったものの、いったい海外ではどういう活躍をしていたのか、どのように扱われていたのか、いまいちピンと来ませんでした。
坂本九ちゃんの「スキヤキ」がビルボード誌で1位になったと言うことは知ってました。
でも、じゃあ、ザ・ピーナッツは海外でそういう実績はあったの?ただ、ショー番組にゲストで出ただけじゃなかったのか?と、これはイジワルではなく、素直に知りたかったのです。
毎年暮れの紅白歌合戦で司会者がザ・ピーナッツを紹介するときには必ずと言っていいくらい「世界の・・・」と言っているのを聞く度に、ホントに世界で活躍してたの?実績はどうだったの?と言う疑問がぬぐいきれなかったのです。


でも、2003年にドイツで、過去にザ・ピーナッツがドイツで出した全シングル盤プラス貴重音源の初CD化と言う画期的な企画があったこともあり、やっぱりピーナッツは海外で高く評価されていたんだという一つの確信が持てる出来事がありました。
海外でのザ・ピーナッツの位置付けと、日本の芸能界での位置付け、そして渡辺プロの考え方、肝心のザ・ピーナッツの本心、これらに迫ってみようと思います。
エミ 「最初はニューヨークへ直接行って……一週問いたの」
ユミ 「ラスヴエガスで二日半いてロスアンゼルスで三日いて帰って来たの」(笑)
エミ 「こういうと、ずい分簡単に聞こえるわね(笑)
エド・サリバンショーをとったのはニューヨークのCBSテレビスタジ才なの。
私がコーヒーでヤケドした所なんだけど……」
ユミ 「あの時は大変だったわね」
エミ 「皆んなはコーヒーで?なんて不思議そうな顔するのよ」
ユミ 「そのコーヒーが凄いのよ。沸したてで、大きなカッブに一杯入ってるの」
エミ 「それをスタッフの人やら皆んなにくばって歩くのね。
丁度私の所でその人が手をすべらせちゃったの」
ユミ 「腕と足にバサッとかかってもう駄目だと思ったわ」
エミ 「でも徹底してるわね。やった本人の生年月日から住所から全部調べるの。
そして、あたしのお母さんとか何人姉妹だとか全部よ。
ちょっとしたケガでもスタジオ内で起きた事件として取扱うのね」
ユミ 「本当に明日のステージ駄目だと思っちゃったわよ(笑)
そしてオリーブなんかぬってたら、そんな事したらダメだっていわれて。あわてて氷で冷やして」
エミ 「それで、むこうでは全員が集ってリハーサルするんじゃなくて、何時から何時までは誰々、何時からはピーナッツっていうふうに、時間がくぎられてるのよ。
時問を絶対にオーバーしないわけ」
ユミ 「だから私達の時問は全部ケガの為にとられちゃったわけよ。
そうするとリハーサルが出来ないの。同情心とかっていうものはないんだもの。きびしいわよね」
エミ 「でも、それが午前中だったから、午後のリハーサルは出来たの。
でも手と足に包帯してたから踊りが出来なかったの。踊りは今度の機会にってことになったの。」
ユミ 「もう大丈夫ね。跡も残ってないし。そんなわけでガタガタしたけど、割りにヒマだったわね。」
エミ 「着いた日が夜中で、次の日にCBSのスタジオヘ行ってピーナッツのいろんな曲を聞かせたの。
五曲ぐらい。
それで“ラヴァー・カンバック・トウー・ミー”と“オーケー・ユー・イン”をやる事になって、その日は終り。
ダラダラしてないってことね。向うは」
ユミ 「番組は一時間もので、ピーナッツの他にイーディー・ゴーメが出たの」
エミ 「アメリカのショーって、例えばディーン・マーチンとか……そういうショーには必らずコメディアンとか手品師なんかが出ているの。
それでほとんどが公開のナマ本番なの。客席はいっぱいで、プレミアのつく時もあるらしいわ」
ユミ 「無料の招待券や入場券じゃないのよ(笑)・・・日本だとほとんどの公開番組が録画でタダでしょう(笑)そこは違ってるわね」(笑)
エミ 「そうね。わざわざプレミアのついた券を買うんですものネ」(笑)
エミ 「まあ無事終ってラスベガスに行ったんだけど、ラスベガスってこれがあるじゃない(スロットマシンの真似をする)でも何んにも手をつけなかったの。
ずっとショーを見っばなしで…」
ユミ 「ショーが夜中でしょう。朝まで見て、寝て、起きてショーなのよ。ほんとにショーがないってこのこと」(笑)
エミ 「いちばん短かったラスベガスだけど、五、六本ショーを見たお蔭で最も長く滞在したように感じたわね」
ユミ 「印象に残ったのはメルトーメっていうジャズシンガーなの。
相当の年令で大御所なのよ」
エミ 「それとカテリーナ・バレンテだったわね。
カテリーナなんて私達からみると世界的な大スターじゃない…」
ユミ 「だけど、アメリカに行くと新人なわけよ。まだアメリカでは二、三年でしょう。
それでやっとラスベガスに出られるって固くなってたわね」
エミ 「その真剣な表情をみたら私達こわくなっちゃって…すごくきびしいんだなって思っちゃったわ。
結局、日本がきびしくないっていうよりも、アメリカ自体が大きすぎるのよね」
ユミ 「そうよ。国自体が大きいし、私達が真似ごとをしているんだってことになっちゃうのよ。
つくづく感じちゃったわ」
エミ 「こんなナマちょろいんじゃーどうしようもないって思っちゃった。これから先が思いやられるって……」(笑)
ユミ 「やらなきゃいけない事がいっぱいあるわ!」
エミ 「それで、あたし達ヨーロッパには三回ほど行ってるけど、その時はまあカタコトの英語で通じてたの・・・。」
ユミ 「単語を並べたような、いわゆるブロークンだったのよね」
エミ 「だけどアメリカでは全くだめだったの。少しぐらい話せますでは完全にアウト…(笑)」
ユミ 「本当に困ったわね。向うでペラペラペラなんていわれたってわからないの」
エミ 「だから、アメリカヘ行っての感想って聞かれると“嬉しかった。素晴しかった”ではなく、いやになったっていった方がぴったりよ」
ユミ 「そうね。私達、世界のピーナッツなんていわれて、かえってはづかしくなっちゃう」(笑)
エミ 「今度はダニー・ケイショーの為に又アメリカヘ行くでしよう、こわいのよ」
ユミ 「ニューヨークってとこは歌も唄えて踊りも出来るって人がウヨウヨいるのよ。
だから私達はたまたま歌えて踊れるけれどもそれが当り前なわけよ」
エミ 「だから歌やってる人が踊りを勉強したいって日本ではいうでしょう……アメリカではそれが一つになっているの。
歌えて踊れなければダメなの。また、そんな人、つまり歌と踊りを一つとしてやってる人が大勢いるのね」
ユミ 「もちろん日本をけなすんじゃなくて、向うが大きすぎるのよね」
エミ 「こんなこといってると、凄く誤解される事があるんだけど、決っして日本がダメだっていうんじゃないのよ。
私達が、完全に日本を捨ててアメリカで永住するとか、そういう事は出来ないものね。生活環境も違うし」
ユミ 「だから完全に向うに行くんだったら、いわゆる本物のそのものズバリのものがつかめると思うわよ。
だけど私達は日本人だから日本に居て、日本人に愛されたいと思うもの。」
エミ 「そう、日本でいい仕事をしてそれでアメリカに行かれるっていう事が理想なのよ」
ユミ 「結局、日本でイライラしているより、向うでもたちうち出来るようになるには、向うに永住して、しっかり勉強する他はないわよ」
エミ 「でも日本が好きだし、そんなことは出来ないし…だからこれから先、どういうふうにすれば目的を果せるかを考えると苦しくなっちゃう」
ユミ 「また八月頃から約ニケ月間アメリカヘ行くでしょう。そうすると日本をニケ月問留守にするわけじゃない。
シャポン玉ホリデーなんかは全部ビデオでとりだめしておくから、テレビのプラウン管からは顔を出すけど、地方や、劇場には出られないでしょう」
エミ 「そうよ。今年は八月は梅コマだと張切っていたし、ファンの人も早く来て下さいなんていわれてたの。
それがアメリカでしょう。
皆んなに忘れられるんじやないかなと思って心配してるのよ・・・」(笑)
ユミ 「ザ・ヒットバレードの場合は順位もかわるし、とりだめも出来ないから、ちょっと心配なんだけど・・・」
エミ 「シャポン玉ホリデーのディレクターの人とこの問、話したんだけど、この番組だけはピーナッツがおばあさんになるまで、クレイジーがおじいさんになるまで続けたいって・・・」
ユミ 「だからピーナッツが時々スタジオに現われないのは淋しいって…。
チームワークがくずれたり、雰囲気が違ったりしてはね・・・」
エミ 「だからピーナッツが居ない問のビデオどりも、皆んな忙しいスケジュールをあけてやってくれるの」
ユミ 「みんなピーナッツを可愛いがってくれてるでしょう。
だからそれには答えなけりゃいけないしピーナッツにとって、とっても嬉しいことだわ」
エミ 「シャボン玉はピーナッツが居なくても流れるわけ。そうでなくちゃいやだもン(笑)
日本へ帰って来て〃あれ?ピーナッツてだァれ。なんていわれたら・・・忘れられたらイヤだもの」
ユミ 「そうしたらピーナッツどこへ帰っていいかわからないもの、、忘れないで」(笑)
エミ 「最初、六月は日劇に出演する予定だったの。
それがスイスヘ行く事になってキャンセル。そして、八月のアメリカの件でそれも行けなくなったの」
ユミ 「というのは、スイスヘ行ってたら、アメリカヘ行く為の準備が出来なくなるでしょう。
だから、日劇にしろ梅コマにしろ、大変残念なんですけど…そういう訳で・・・」
エミ 「梅コマなんて咋年も出なかったし、すごく淋しいと思うけど仕方ないわね」
ユミ 「それだけに、八月のアメリカ行きにはウンと勉強し、いろんなものを吸収して来たいと思うわ」
エミ 「今度のアメリカでは、きびしかったの一言につきるわね」
ユミ 「この問も弘田三枝子さんから電話があってどうだった--なんて」
エミ 「ミコちゃんの場合も彼女は彼女なりに研究し、やって来たと思うの」
ユミ 「それが新聞や何かでいろいろ批判されてたけど---」
エミ 「いろいろ話してみると私達が感じたことと全く同じなのよ」
ユミ 「とどのつまりはお互いに"きびしかった"ということになっちゃった」
エミ 「今度の渡米までにはしっかりやらなきゃね」
ユミ 「ほんと。気が気ではないわ」
 
事務所に振り回されていた、というと語弊があるかもしれないけど、ピーナッツさんの気持ちの届かないところで会社の戦略が動いていた、という見方も出来るのではないか、と感じました。
確かに海外(特にヨーロッパ)では随分人気が出たようです。
1963年に初めて行って以来毎年のように招待され、欧米の名だたるスターと平等、あるいはそれ以上の待遇も受けたと聞きます。
日本国内で「シャボン玉ホリデー」と「ザ・ヒット・パレード」という2本のレギュラー番組を持ち、毎回番組内で2〜3曲の新曲を覚え同時に振り付けも。
そして春の日劇ピーナッツ・ホリディ、夏の梅田コマ出演、その間にも地方公演、テレビ・ラジオ番組への出演、そんなローテーションで数年やってきたピーナッツが特に自分達から希望して海外進出を選んだとも思えないのです。
このお二人の会話でも、「シャボン玉ホリデー」が自分達のよりどころのように語っているのがわかるし、2ヶ月も日本を離れることの不安と寂しさものぞかせています。
歌うことと踊ることは大好きだと思うんです。
そのための努力は惜しまない人たちだったと思うけど、「日本が好き」「日本の芸能界でやって行きたかった」のではなかったか。
昭和41年秋「ローマの雨」が出た頃にテレビやラジオ番組に出演した時の録音テープをお借りして聴きました。
その中で印象に残ってるのは「海外へ何度も行ってるけど、あらためて日本で日本語の歌を歌って行きたい」というお二人の言葉でした。
渡辺プロという最大手の事務所の看板歌手として、自分達の気持ちを抑えていかなければいけないことも多かったんでしょう。
本当はこうしたい、と言う気持ちをこらえて頑張るザ・ピーナッツの姿を見たような気がしました。



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