バーデンバーデン音楽祭 評
森田 潤

雑誌“POPS”誌に1965年当時のポピュラー歌手の
“スターの海外武者修行”という見出しで

“弘田三枝子/ニューポート”
“ザ・ピーナッツ/バーデンバーデン”
“伊東ゆかり/ベネチア”
“岸洋子/アンティーブ”

の4組の活躍が載っていました。
以下ザ・ピーナッツの部分をピックアップ。


日本人歌手の海外進出が最近目立って多くなった。
これまでも石井好子、高英男、アイ・ジョージ、ザ・ピーナッツといったところが外国へ歌いに出掛けているが、ことしになってからは、伊東ゆかり(二回)、ザ・ピーナッツ、石井好子、高英男、アイ・ジョージ、それに弘田三枝子といったぐあいに続々と欧米に渡っている。
おそらく、これほど大量の歌手が同じ年に海外進出をしたことはないわけだが、はたして日本の歌手が海外で活躍し得る時期が到来したのだろうか。
また日本の歌手たちは海外で充分通用する実力を持っているのだろうか。
それらを最近帰国した歌手たちの動きから判断してみよう。




ザ・ピーナッツ−バーデンバーデン音楽祭−

ザ・ピーナッツが「私たちがあまり有名になっているのにおどろきました」というほどの大成功だった。
バーデンバーデン音楽祭は一昨年はマレーネ・デートリッヒ、昨年はカテリーナ・ヴァレンテがメインゲストに招かれ、今年はアメリカから女性歌手ペギー・マーチが出演したように、海外からも有名歌手が出演する。
ことしはザ・ピーナッツがメインゲストに招かれたわけだ。
ヨーロッパの現役歌手の優勝者を選ぶ音楽祭でこちらはコンクールの色彩が強い。
ザ・ピーナッツはゲストとして招かれたわけだから、優勝には関係なく歌った。
彼女らは音楽祭の最後を飾って二十分間歌った。
まずフリソデ姿で「さくらさくら」を歌い、白いドレスに引き抜きの早がわりで英語の「アラウンド・ザ・ワールド」、ドイツ語の「フー・イズ・ザ・ボーイ」など八曲。
多分にショー的な楽しさを見せる余裕もあったようだ。
もちろんこの情景はテレビで全欧に放送されたはずだが、このほかハンブルグでテレビ・ショー「スタジオ21」のゲスト出演、パリで四曲ヨーロッパのポピュラー曲をレコーディングしたほか、ふたたびハンブルグに戻ってドイツの曲を二曲レコーディング、それぞれ近くヨーロッパでこのレコードが発売になるという。

「西独のファンは私たちをよく知っていて、町を歩いていても人だかりがしてしまいます。だから、こんどはのんびり見物もできなくてつまらなかったわ」とふたりは大スター並みのつらさを語るようにまで成長している。
ドイツ・フランス各地でピーナッツ招へいの申し込みが殺到したといわれるが、こんど彼女らに同行した、渡辺プロ社長渡辺晋氏は「日本のタレントが海外で活躍するならよほど慎重にかまえなければすぐにツブされる。いきなり行っておいそれと成功するはずがない。少しずつ着実に市場開拓をやり、その積み重ねの後に初めて成功がもたらされる。
だからあちらの要求どおりに従ってばかりはいられない。こちらのペースを守って、少しずつ羽根をのばすつもりだ」と手綱をしめる構えでいる。

綿密な計画と周到な用意を

フジヤマ、ゲイシャ、ジンリキシャなどといったもので海外にアッピールする時代ではなくなった。
実際に弘田三枝子にしてもザ・ピーナッツにしても、ちゃんとしたドレスで歌ってきた。
フジヤマ、ゲイシャで売り込むなら、それはそれでいいのだが、いつまでも日本の物珍しさを海外に押し売りしていてはたちまち通用しなくなるのだ。
そういった意味では弘田やピーナッツの態度は立派だったと思う。

弘田の場合はニューポード・ジャズ・フェスティバルの側でも、日本人歌手を迎えるのは初めてのことだった。
主催者側として弘田に充分な時間を与えより多くの成功をもたらすような配慮がまったくなされなかったのは気の毒だった。
リハーサルが充分にできないという条件が前もって予知されたなら、むしろ出場を断るべきだったのではないだろうか。
その点がかなりあいまいなのである。
ニューポートのステージに立さえすればいいのだというのではちょっと考えが甘すぎる。
ニューポート側も弘田側もまさかこのような結果になるとは考えてもみなかったことのようだが、実はその点が危険なのだ。※注

※注:ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙の批評
「日本からやってきた少女歌手はよくやった。しかし、彼女の歌は時としてエラ・フィッツジェラルドであり、サラ・ヴォーンでもあった。既成歌手のモノマネの感が強い」というもの。

また、直前まで伴奏の楽団が決まらなかった。
したがってリハーサルがまったくできなかった。
ピアノのビリー・テーラーだけ一人で一回だけの音あわせ、ぶっつけ本番という始末だった。
「三階節」は彼女のキメ玉といえる、とっておきのレパートリーになっていたが、前田憲男の編曲が手の混んだもので、楽譜を初めて見て伴奏するのにはいくらベテランプレーヤーでもうまくできるはずがない。途中で伴奏がつまづいて、三分くらいは彼女がアドリブでつないだという苦労もあったようだ。
レパートリーの組み方もさることながら、弘田の場合はニューポート出場までの計画路線が甘過ぎはしなかったか。何がなんでもステージに立さえすれば何とかなる、といった押しの一手がどうも感じられてならないのだ。

たとえば、この1月、イタリアのサンレモ音楽祭に入賞した伊東ゆかりの場合は、事前に課題曲の楽譜を入手しているし、作曲家の宮川泰が同行して現地の楽団と充分に時間をかけて打ち合わせをしている。
また、ザ・ピーナッツにしても昭和37年、昨年のヨーロッパ旅行にも作曲家を同行させている。この二回の渡欧はバーデンバーデン音楽祭の計画的な“布石”でもあった訳だ。
弘田の場合はこの“布石”が甘かった。
一昨年アイ・ジョージがカーネギー・ホールでリサイタルをやり、好成績をおさめ得なかったのも、ポスターが一枚も貼られない宣伝不足と事前の計画が不備だったことによる。
弘田のニューポート出場はそれによく似ていると思う。

ザ・ピーナッツにしても伊東ゆかりにしても、ヨーロッパでまがりなりにも認められるまでに三年もかかっている。
ちょうど三年前の夏、渡辺プロはカテリーナ・ヴァレンテを西独から呼んだときから、この計画は進められた。まず西独の音楽界の有力者で編曲家のキースリング氏にヴァレンテを通じて知り合い、中尾ミエ、ピーナッツの吹き込んだ録音テープを持ち帰って聞いてもらっている。
その結果、昭和37年の渡欧で一応の成功をしているし、昨年5月はテレビと映画のプロデューサーのフリッカー氏を日本に招き、渡辺プロ所属のタレントを総動員した「日本のショー」のフィルムを持ち帰ってもらっている。
そして、昨年10月西独ババリア放送テレビの番組に主演してヨーロッパの注目を集めたという段取りを作っているのだ。
第一回目の渡独はすっかり成長した今のピーナッツから考えると、ほんのチョイ役で歌ったにすぎなかったにすぎなかったともいえるがこれが後々までに大きな踏み台ともなっていることがわかる。
渡辺プロとしてはこのほかにも、宮川泰、東海林修らの作曲陣を渡欧させ、ピーナッツ、ゆかりらの渡欧と密接なからみ合いを持たせているし、まさに用意周到ぶりは完全なものである。

「一流メンバーの中にまじって私は見劣りがしたかも知れないけど・・・」と帰国直後羽田空港で弘田は語っていたが、“一流メンバー”ばかりが出場するフェスティバルであることはよく知っていたはずだ。
それならなおさら充分すぎる用意がなされなければならない。

「日本のタレントが海外進出をするようになったのはまことに喜ばしい限りだが、何回海外で歌ったということだけが実績として高く買われるようでは日本の芸能界ではまだダメだ。海外から帰ってくる度に歌の実力が向上しなくては何もならない。歌手の場合はそれが特に強調される」そういう意味ではザ・ピーナッツ、伊東ゆかりらの渡辺プロの売り出し作は堂に入っている。

今後もますます日本人歌手の海外進出は盛んになるだろうが、これまでの歌手たちの経験を生かした無駄のない進出ぶりを見せてもらいたいものである。

(以上ほぼ原文のまま。記事の順番は多少入れ替えてあります)


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