FKCL-40182〜3
ザ・ピーナッツ全曲集
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<2枚組> ¥3.800
<Disk.1> <Disk.2>
  1. 可愛い花
  2. 情熱の花
  3. 悲しき16才
  4. 心の窓にともし灯を
  5. 月影のナポリ
  6. ルナ・ナポリターナ
  7. イエロー・バード
  8. ふりむかないで
  9. 私と私
  10. 手編みの靴下
  11. レモンのキッス
  12. 若い季節
  13. 恋のバカンス
  14. ジューン・ブライド
  15. ウナ・セラ・ディ東京
  1. 明日になれば
  2. ローマの雨
  3. 銀色の道
  4. 恋のフーガ
  5. 恋のオフェリア
  6. 恋のロンド
  7. 哀愁のヴァレンティーノ
  8. 東京の女
  9. 大阪の女
  10. なんの気なしに
  11. サンフランシスコの女
  12. さよならは突然に
  13. モスラの歌
  14. 南京豆売り
  15. スター・ダスト
    

このCDは「The CD Club」といって、通販大手のソニー・ファミリークラブが運営する会員制の組織で会員向けに作られた限られたCDです。
「クラシック」「ファミリー・ミュージック」 「ポップ・ロック」「グッド・ミュージック」「ジャズ・ フュージョン」「フォーク・ニューミュージック」 「ポップス・歌謡曲」「名画・名作ビデオ」「CD 倶楽部名人会(演芸)」「カルチャー」という10の コースがあり、毎月それぞれの推薦盤が紹介されて、 購入不要の返事を出さなければ、自動的に送られて くるという「オートマチック・デリバリー・サービス」 によるCDおよびビデオの通信販売です。 運営はソニーですが、大手各社の音源はすべて 対象です。

会員になるためには入会金1000円が必要で、 1年間に最低1枚を購入することで会員権が 延長されます。紹介されるものが市販の商品 にはないものがあることや、時々めずらしい 音源が登場することもあって、毎月発行 される「CDクラブマガジン」も要チェックのようです。

ということで「CDクラブマガジン」の1999年9月号にザ・ピーナッツのCD「ザ・ピーナッツ全曲集」の発売が掲載されていたということで、内容とともに、各著名な方のコメントが素晴らしいのでここに載せたいと思います。
歌謡界最高の女性デュオ
ザ・ピーナッツの魅力のすべて --------------- 伊奈一男


<名プロデューサーにより魅力が開花> 


 最高の女性デュオは?ザ・ピーナッツ?それともピンク・レディー? 
ピンク・レディーのデビューはピーナッツ引退の翌年だ。この時間差が答えを二分する。
しかし「音楽的に」となるとザ・ピーナッツだと答えて間違いはないと確信する。

 何しろ彼女たちは女性デュオとして異例の17年間もの間ナンバー・ワン・デュオとして君臨した。
歌唱力がいかに優れていたかを証明できる。
 
 名古屋で歌っていた伊藤シスターズが渡辺プロに見出されて上京、3年間、宮川泰による厳しい訓練を経た後、日劇 の「コーラス・パレード」でデビューしたのが昭和33年。「コメ・プリマ」を歌った。

 レコード・デビューの「可愛い花」をはじめとして次々にトライしたカバー・バージョンは何れも大評判になった。清涼感に溢れた美しいハーモニーに初めて接した歌謡ファンは魅了された。
 
 発掘した渡辺美佐の耳と勘も見事なものだが、むしろ、ここからどう育てて行くかで名プロデューサーぶりが発揮される。いきなり歌謡曲にはもってゆかなかった。
日本のポップスでなければならないという彼女の狙いに、宮川が的確に反応した。

「恋のバカンス」「ウナ・セラ・ディ東京」がその答えである。
当時のマスコミはこれらの作品を「無国籍歌謡」と名付けた。
宮川はこれを非難ととったらしいが、実際は違う。
記者たち、筆者もその一人だったから正確に答えよう。
アメリカン・ポップスの匂いはするけれど、まぎれもない日本の歌。でも“日本離れしている”。
そんなものにお目にかかったことがない当惑と、日本の作曲家もここまできたかというなかば唖然とした称賛の表現だったのである。

<彼女たちだけが持つ天賦の才能・資質>

 一卵性双生児ではあるが姉はアルト気味、妹はソプラノといっていいくらい違う。
しかし声質とフィーリングは同一。だからこそあの美しいハーモニーは生まれた。
彼女たちが登場した時期もよかった。「場」に恵まれたのだ。
高い目標をかかげ、真剣に新しいエンタテイメントの創造に励んでいた創造時代のテレビ局の理想に、彼女たちほどぴったり当てはまるタレントはいなかった。

 宮本治雄の「戦後ヒーロー・ヒロイン伝説」にハナ肇の至言が紹介されている。
「トリをとる歌手はいくらでもいる。だが、オープニング歌手がつとまるのはあの二人しかいない」と。
華やかな場の雰囲気を創り出す役割という意味だ。
これは天賦の才能・資質がなければ出来ない。
この評言は日本の歌謡世界が転換するオープニングを勤めたことにもあてはめておきたい。

こういう彼女たちだからこそ、その歌唱は時代を超越して永遠の生命を保っているのである。
★伝説となった美しいハーモニ----------------------玉置 宏

<何事にも一生懸命でよく勉強をした二人>

譜面がなくてもハーモニーをつけられる天才的なセンスがあった、といわれたザ・ピーナッツを発見したのは、ジャズ・ドラマーのジミー竹内である。

メンバーだった渡辺晋とシックス・ジョーズが、ライブの仕事で名古屋入りしていた昭和32年10月の某日、知人の出ていたナイトクラブ“フェルナンデス”を覗いた時、「さらばジャマイカ」や「マイアミビーチ・ルンバ」などを唄っていた双子の姉妹に、目と耳を奪われたジミー竹内。
二人はまだ高校2年、アルバイトで唄っていたのだ。

渡辺晋、美佐夫妻は、東京・上大崎に新築したばかりの自宅に同居させ、女性コーラスが折しもブームであったところから、二人は“伊藤シスターズ”の仮称で、さっそく日劇の「コーラス・パレード」にかり出された。

一見、コロコロッとした子供なのだが、、ユニゾンもできているし、まだ粗削りながらハーモニーも良い、それに何事にも一生懸命。
双子は、お互い協力しあって、ユニゾンが1本の線に聞こえるのだと専門家は分析する。
二人がライバルであり仲間でもあるという、ツインズの特性に加えて、誰に聞いても二人はよく勉強をしたし、歌手の模範だったという答えしか返ってこない。

ザ・ピーナッツという素敵な名を付けたのは、日本テレビ「光子の窓」の井原高志プロデューサーである。
私が二人に出会ったのは、和製ポップスの草分けとして「可愛い花」でデビューした昭和34年、キングレコードのスタジオが音羽にあった講談社の裏側で、老朽した木造の建物の頃だった。

<歌詞を全部暗記しなければならなかった理由とは?>

どちらだったかの記憶はないが、一人が松下マネージャーにオンブされて、タクシーを拾うところで、吹込みに時間がかかったのか、かなり遅い時間だった。
当時私は「キング・ヒットパレード」というラジオ番組を担当しており、それ以後、数えきれない程共演したが、インタビューしてもユニゾンで答えが返ってくる、ステレオで二人の歌を聴いているように話してくれたものだ。

テレビでの出会いは、昭和34年10月25日、私が司会していた「ロッテ歌のアルバム」第73回、コーラス特集のナマ放送で、スリー・キャッツ、フォー・コインズと一緒だった。

ロカビリー旋風が吹きまくっている中で、ザ・ピーナッツの存在は一服の清涼剤だったように思う。
当時はとにかく、二人の歌声がラジオ・テレビから聞こえない日はなかったといっていい。
ことに昭和34年3月に開局したフジテレビでスタートした「ザ・ヒット・パレード」は、渡辺プロの持ち込み番組だったので、毎週のように出演しなければならず、持ち歌以外の曲をいくつもマスターするために、ひたすら練習、練習、そして本番、のくりかえしであったが、誰よりもしっかり歌詞を覚えてスタジオ入りしてくるので、スタッフは感心しきり、それもそのはず、二人とも近眼なのでカンニングペーパーが用意されていても見えないので、全部を暗記しなければ周りの人に迷惑がかかる、そこでひたすら練習を重ねていたのである。

そんなさなか“ザ・ピーナッツ・ホリデー”というコンセプトで企画された「シャボン玉ホリデー」がスタートする。
昭和36年6月4日の番組開始時点ではザ・ピーナッツ中心のショー番組だったが、始まった年の暮れ植木等の「スーダラ節」がヒットし、クレイジー・キャッツとのジョイント構成に変えたのが当たって、11年間も続く日本テレビの人気バラエティー番組となったが、記念すべき第1回には、春日八郎、第2回に村田英雄をゲストに入れていることからも、レギュラーだけで番組を維持できるかどうか、スタート時の不安がうかがえる。

<丸ポチャ姉妹がみるみるうちにスリムに>

昭和37年、テレビ契約世帯が1千万を突破、イギリスを抜き、世界第2位のテレビ王国となった年、「シャボン玉ホリデー・夏祭りだよ!ピーナッツ」は、視聴率20%台にのり、順調に人気を獲得していった。

昭和30年代後半から昭和40年代前半にかけて、日曜日の夜は、藤田まこと・白木みのるコンビの珍道中喜劇「てなもんや三度笠」⇒「シャボン玉ホリデー」⇒大瀬康一主演の「隠密剣士」⇒「漫画劇場・ポパイ」を見るというのが、多くの日本の家庭の習慣にまでなっていた。

歌手がダンスを踊るという演出を考えた「シャボン玉ホリデー」は、振付師小井戸秀宅に「踊ったことがないと言っているザ・ピーナッツを、番組が始まるまでに少しはできるようにしてくれ!」と依頼、小井戸は早朝から日本テレビのスタジオでレッスンを付け、本番にのぞむことをくりかえした。

丸ポチャの双子の姉妹がみるみる磨かれ、スリムなプロポーションに変身するまでに、さほどの時間は必要ではなかった。
秋元ディレクターは「難しいことはいらない、ユニゾンでいいから躍らせたい。つまり二人とも同じ振りをすることで、双子という特性を生かしたい、踊りは未熟でも、カット割りでいかに、やさしく綺麗に上手く見せられるかが勝負、テレビは難しくしてはてけない!」これが秋元演出のコンセプトだったのである。

昔のスタジオ・ショー番組では、“口パク”がとても多かった。
“プレスコ”といって、あらかじめ歌入りで録音してあるテープに合わせて、口を動かしながら踊るのだが、ザ・ピーナッツは、これが実に上手で、まったく“口パク”を感じさせなかった。
ズレることなく、バッチリ合わせられるのは、一卵性双生児の特性なのだそうだ。

<海外でも大きな話題を呼んだ>

昭和38年12月、ザ・ピーナッツは旧西ドイツの「カテリーナ・バレンテ・ショー」に出演する。
初の海外出演で大きな話題を呼んだ二人は、あのビートルズも出演したアメリカの歴史的音楽バラエティー番組「エド・サリバン・ショー」や「ダニー・ケイ・ショー」にも連続出演して、日本を代表するアーティストの地位を確立している。

エミ・ユミ・・・・・ザ・ピーナッツの本名は、姉のエミが日出代、妹のユミが月子、スタッフの間では“日出ちゃん”“月ちゃん”と本名で呼ばれていた。

司会者として共演したザ・ピーナッツはいつも完璧だった。
二人がNGを出した記憶が私にはない。

そして、ザ・ピーナッツを想うとき、浮かんでくるいくつもの顔がある。
「ザ・ヒット・パレード」で唄うピーナッツの後ろで、独特のラテン系のステップを踏みながら指揮をしていた、スカイライナーズのリーダー、スマイリー小原、安田伸扮する助監督をメガホンで理不尽に叩きまくるキントト映画の監督なべおさみも、「辞めさせてもらいます!」「知らない、知らない、知らない」の小松政夫も「シャボン玉ホリデー」から飛び出した人気コメディアンである。

それと、女性タレントの誰もが感服していた衣装センスの良さも特筆しておきたい。
今でこそスタイリストの存在は当然のこととされているが、当時はそんな職業はなかったので、おそらく二人は海外のファッション雑誌を見たりしながら、衣装やヘアスタイルを研究していたにちがいない。
“ブティック”という呼称もまだ聞かれなかった時代だから・・・・。

<ザ・ピーナッツの番組をつくってみたい>

昭和50年、16年間にわたる芸能活動に終止符を打ったザ・ピーナッツ。
以後マスコミとの接触を一切断ち、今や伝説のスーパースターとなったザ・ピーナッツ。
その二人の素顔を知り尽くしている振付師の小井戸秀宅、音楽監督だった宮川泰の両氏に往時の話を聞かせてもらいながら、ラジオでザ・ピーナッツの特集を是非組みたいと思っている。


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