ドイツで人気者 ザ・ピーナッツ
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ザ・ピーナッツの二人は、1964年9月26日〜10月30日までの一ヶ月あまりに渡り、西ドイツ・ババリア・プロ製作の「スマイル・イン・ザ・ウエスト」出演のため日本を留守にした。
この番組は大晦日の夜ヨーロッパ25ヶ国に放送される。(された?)
この「スマイル・イン・ザ・ウエスト」と言うものは歌あり、踊りあり、パントマイムありのミュージカル・ショー。
ヨーロッパ一といわれるミュンヘンのババリア・プロ製作の75分もののテレビ映画。
ここで、ザ・ピーナッツはメインタレントとして十数曲のポピュラーソングを歌いまくる。
また、ドイツの双子歌手・ケスラー姉妹とも並んで英語・ドイツ語で競演する。
ディレクターのミヒャエル・フレッガー氏は1963年のウィーンでのカテリーナ・ヴァレンテ・ショウに出ていたピーナッを見て惚れこみ、いつか自分の番組に起用したいという希望を持っていました。
それが叶ったのが1964年5月の“ショー・ビジネス・イン・ジャパン”でした。
そしてさらにピーナッツメインの番組がここに作られたのです。
このミヒャエル・フレッガー氏というのは、ドイツの黒沢明と言われるほどのディレクターで、それだけに仕事に対して厳しい人物。
75分のビデオ撮りになんと三週間もかけるほど。
馬に乗ったり、頭上はるか三メートルのところでブランコをさせられたり、サーカス小屋が設定されているとはいえ、日本では想像もつかない厳しい試練を受けた。
乗馬シーンでは、はじめピーナッツは尻込みした。それまで馬に近寄ったこともなかったので無理もない。
しかし、フレッガー監督は容赦しない。勇気を奮い起こしなんとか馬に乗ったまでは良かったが、その後エミが落馬した。
その彼女を起こしてくれるかと思いきや、監督はカンカンになって怒った。
「練習時間を与えているのに何故出来ないんだ!スターとはなんでも出来なくちゃいけない!」と言う言葉に二人は泣き出してしまった。
「今でも思い出すと涙が出てくるわ」
ドイツでの仕事は、ピーナッツをひとまわりもふたまわりも成長させたようだ。
踊りのレッスンだけでも連日、二週間も続けるという徹底ぶりに、今までとかくお嬢さん芸で通っていたピーナッツもプロ意識に目覚め、「仕事に対する心構えがグッと意欲的になった」と口をそろえる。
日本にいる時は網タイツで身体の線をはっきり出すのを恥ずかしがっていたが、すすんで足を出し胸をあけ、控えめだったメーキャップもアイラインなどでくっきりとアクセントをつけるなど、今までのピーナッツを知っている人には信じられないほど。
自分達の魅力を強調することに積極的になってきた。
とにかく「1時間番組を一本撮りあげるのにまるまる一ヶ月もかけるドイツ人のねばり強さと仕事に対する責任感は見習うべきだ」という二人の言葉は、二人の成長を端的に物語っている。
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1ヶ月にも及ぶドイツ滞在でピーナッツが得たものは? |

汗びっしょりで猛レッスン! |

伸び伸びと大胆な振りをみせるピーナッツ |

こんなサングラスしても16歳くらいにしか見られなかった。 |
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←・↑本番中のスタジオ風景 |
「スターと言うものはなんでも出来なくちゃいけないんだなあと、つくづく思ったわ。」
と言うのがピーナッツの帰国第一声だが、確かにミュンヘンでの一ヶ月の生活が、ピーナッツをすっかり変えてしまったようだ。
ピーナッツの代名詞のような“可愛らしさ”は変わらないまでも、とても健康的で、
大人びた感じが目立つ。
「私たち可愛らしさを売り物にしてたでしょ。だけど向こうじゃそれだけでは全然通用しないの。
お芝居の中でのことだけど、私たちお酒も飲んだしタバコもすっちゃった。」
ドイツでの収穫は計り知れないものがあった。
二人はドイツでも人気者になった。とにかく売れっ子だった。
「10月に入って私たちのフィルムがテレビで放送されるし、新聞には載るし、クラブでは大げさに紹介されるしで、すごい人気者扱いでした。」
死にものぐるいの仕事の合間のレコーディング。
西ドイツ一のエレクトローラ社と専属契約を結び「東京からのお土産」「船長さん、ハワイへ行きましょう」「ハッピー・ヨコハマ」他1曲の計4曲を吹き込み、11月中には発売予定と言う。
映画出演の話もあった。
ドイツ、イタリア、フランスから「歌を歌うだけでも・・・」
という誘いを受けたがスケジュールの都合で見送られた。
こうしたピーナッツには遊ぶ時間がなかった。
せっかく取れた日曜日の休みにはお店も休み。
ウィークデイも6時半閉店だからどこにも行くところがない。
たまに外に出ればたちまち人だかりが出来、サイン攻めにあったり、マスコミのインタビューにあった。
※尚このページの記事は複数のものを私アンカーが独自にまとめたものです。
「海外でも人気者」、「世界のザ・ピーナッツ」という形容詞が長い間イマイチピンとこなかったわけですが、確かにドイツの人々の間に親しまれ、支持されたということが8枚ものシングル盤と数枚のLP、そして2003年7月にCDが発売されたという実績からもあらためてそうだったんだと実感できましたね。
特にドイツで人気が出始めた1960年代後半から約40年近く経ってからのCD発売は驚きました。
今でもそういう要望(需要)があったということですよね。
時々私(アンカー)のところへ海外から電子メールが来ます。
「ピーナッツが日本で出したレコードが欲しい」、「モスラに出ていたフェアリーのことをもっと知りたい」などなど。うれしいですね。
(でも返事は翻訳ソフトを使った簡単なものしか書けないので一、二度返信してそれっきりになってますが・・・汗)
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折りからの“ビール祭り”で街も賑わっており、ピーナッツもモテモテでした。 |
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