'60 今年こそ自分たちの歌を!
“小さな二つの花 ピーナッツ新春の夢”
週間平凡1960年1月13日号 |
可愛い瓜二つの少女たち“伊藤ユミ、エミ”姉妹が名古屋から上京してきて、初めてテレビにでたのは1958年も押しせまっ'た12月25日。
夢のような一年があっという間に過ぎ去り、いま二年目、1960年の正月をあわただしく迎えている。
彼女たちがいう“夢のような一年”は、無名の二人を一躍『ザ・ピーナッツ』としてスターダムにのしあげた。
忙がしいお正月を迎えて“二年目の期待は大きい”彼女たちに、今年の抱負を語ってもらおう。
二年目を迎えてどんな気持?
-そうね。夢みたい。
去年のお正月はでてきたばかりでしょう。
社長さん(渡辺晋・美佐夫妻宅)のお家で迎えた正月は何だか淋しくて-。
というのも、お忙しいお二人でしょう、お正月というのに、家にいらっしゃらないのだから、本当に大変だあと思ったし、とても淋しい思いだった。
それにくらべて今年のお正月は?
-社長さんたちのお正月を気の毒だナと思ってた私たちが、
もう今年は家に落つくことができないんですもの。
嬉しいような--。でも、チョツピリ淋しいナ。
名古屋のおうちにも帰れないのですもの。
だけど私たち、忙かしいこと、とても楽しいの。
去年一年をふり返ってみてどう?
-なにしろ全くの素人から去年一年でテレビに出していただけるし、
夢にまでみた大きな舞台には出られるし、嘘みたい。
でもネ、去年のこと考えるとアッという間に過ぎたようヨ。
それだけに、本当の勉強もできず、ファンの皆さまには申訳なく思ってるの。
私走ちがザ・ピーナッツとして愛していただけるのも、ファソの皆さまや
社長さんはじめ、まわりの方々のおかげと思って感謝してますの。
始めにどのくらい、二人の曲をもっていたの?
-上京してきたときはたしか三十曲くらい。
でも、どうやらこうやら今では八十曲くらいのレパートリーかしら・・・。
その中でも好きな曲は?
-『或る恋の物語』『アデュー』それから『キサス・キサス・キサス』など
静かなラテン系のものなら何でも好きよ。
お二人ともいっしょ?
-えェ、好きな曲は同じ。
二人ともはで好きじゃないでしょう。
そのせいか、静かな曲は大好き。
すごく悲しい曲か、反対にすごく明かるい曲など歌ってて一番好きヨ。
流行歌は歌いたいと思わない?
-始めからジャズ系の歌を歌ってるでしょう、
ですからできればこのまま続けていぎたい。
そうね、皆に親しまれる歌ならドシドシ歌っていきたいワ。
そろそろ目分たちの歌を歌いたくない?
−もちろん。
−今までは外国の歌をアレンジしたものばかりでしょう?
でもね、宮川泰先生が私たちの歌を二年目の贈り物として下さるんですって、楽しみだわ
今年にかける夢は?何を一番したい?
−今いった、自分たちの歌を歌いたいこと。
そして、去年できなかった勉強を一生懸命にしたい。
その二つが1960年の私たちの希望よ。
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けいこ、けいこで九年
ベテランの域に達したザ・ピーナッツ
東京新聞 1967年(昭和42年)6月13日(火) |
テレビの隆盛は大小さまざまなプロダクションの誕生をもたらした。
しかし海のものとも山のものともわからぬ新人をスカウトして、育てあげるという本格的プロダクションは数えるほど。
その筆頭は世界をまたに活躍するまでになったクレージー・キャッツやザ・ピーナッツら三百人近いタレントをかかえる渡辺プロダクションだろう。
ザ・ピーナッツは「いつの間にか女性の中では私たちが一番年上になっちゃった。デビューして九年になるけど、知らぬ間に過ぎたという感じね。」と、こもごも語る。
九年前、名古屋のナイト・クラブで歌っていた双生児姉妹に同プロダクション社長・渡辺晋氏が目をつけ、東京に呼んだ。
そして、すぐ双生児歌手という希少価値と当時のコーラス・ブームにのせてテレビに売り込んだのである。
「あのころはジャズも歌えなかった。まして踊りなど−」と、ともに自分たちの成長に驚いている表情。
常時二本のレギュラー出演番組みをかかえながら毎日けいこ、けいこの連続。
「よくわたしたちは大プロダクションの政策ベルトに乗った、単なる人形ではないかと質問されます。それはテレビのブラウン管だけしかみてない人のいうことで、やはり本人たちの気持ちが尊重されていなければタレントは途中で消えていってしまうはずです。」
このザ・ピーナッツもそろそろベテランの部類にはいるきょうこのごろだが、いまだに彼女たちの二代目は現れない。マネージが双生児歌手の場合はたいへんむずかしいからではないかという。となると、やはり彼女たちは貴重な存在といえそうだ。
「最近の若い人たちをみていると仕事を楽しんでいて仕事と思っていないみたい。苦労知らずね」とおとなの印象をちょいとのぞかせた。
「デビューして九年、知らぬまに過ぎた感じね」というザ・ピーナッツ
=東京・有楽町の渡辺プロで
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新聞記事提供:籾山幸士様
籾山さんは九重佑三子さんがやられた
初代「コメットさん」のページを作っておられます。
β星より愛をこめて
みなさんも九重コメットさんへの思い出を語りましょう。
尚記事に関しては原文のまま掲載しました。 |
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芸能生活15周年を迎えた
ザ・ピーナッツ
これからも“宿命のデュエット”として・・・・・・・
YOUNG 1973年3月号 |
昭和34年『可愛い花』を歌い、可燐に登場したザ・ビーナッツ。
双生児特有のハーモニーのよさと愛らしいルックスでまたたく聞に人気スターの仲間入り。
あれから早いものでもう15年。
まん丸(?!)だったプロポーションもすっかりスマートになり、しっとりとした女っぽさも加わった。
今や卓抜したタレント牲をもった国際的シンガーに成長したのだ。
そんな彼女らの足跡を振り返ってみた。
※
「一口でいうと“もう、15年そんなになるのかなあ……”という気持」
「ちょっとオーバーにいえぱ、アッという間にきちゃった感じですね」
15年を振り返っての感想をきくとこんな答が返ってきた。
“十年一昔”という言葉があるが、今や一昔半。
それも移り変わりの激しいこの世界にあって、常に第一線でやってきたことは並大低ではないのだろうに、
実にさり気ない調子なのだ。
「それはいろいろと壁にっきあたったりして、
何度もやめようという気になったこともありましたけど……」
「だいたい三年周期位でそういう気持にとらわれることがあるんです。
でも、やっぱり歌が好きなんですね。私たちにはこの仕事は
“宿命”みたいなものなのかしら……」と口をそろえて笑う二人。
三年周期といえば、そろそろ5回目の壁がやってくるのでは---
「計算ではそうなるのかな(笑い)でも今はヤル気十分なの。
長い間つづいていたレギュラー(NTV「シャボン玉ホリデー」)も終ったし、
これからは今までやれなかった新しいこともやってみたいし、欲張りなのね」と妹のユミ。
姉のエミがつづけて
「ぜいたくなことかも知れないけど、どうしてもケイコとVTRに週に二〜三日間拘束されてしまうでしょう。
だから、正直いって解放されたという感じの方が強いんです」
特にピーナッツは昭和34年デビューと同時にフジTV「ザ・ヒット・パレード」
NTV「魅惑の宵」(後に「シャポン玉ホリデー」となる)のレギュラーを持ち、
以来昨年の10月に前出の「シャポン玉ホリデー」が終了するまで、
ずーっとそれがつづいたのだから、余計その感が強いのだろう。

しかし、そのレギュラー出演によるプラス面も大きかった。
昭和33年、名古屋のクラブ「ヘルナンド」で当時高校二年生だった彼女らが、
レッスン代わりに歌っていたどころを、渡辺ブロにスカウトされ、
翌年の二月、日劇「コーラス・パレード」で初舞台。
3月には「可愛い花」でキングからデビュー。
そしてトントン拍子に人気スターへの階段を昇り始めるのだが、
その頃の彼女らはまだ名古屋弁まる出し。
それを気にして、公的の場では「ハイ、イイエ」ばかりのとんと寡黙な二人だったのだ。
当時、取材記者たちの間で“ダンマリのピーナッツ”と異名をとった程。
それが「シャボン玉ホリデー」などで否応なしにコントや司会をやらされ、
標準語をマスターするにはいい先生になった。
また、パラエティショーにつきもののダンスナンバーのため振付師の
小井戸秀宅につき、フラフラになるまで、踊りのレッスンもやらされた。
「ザ・ヒット・パレード」では、海の向こうのヒット曲をどんどん歌わせられるし、
それらを通じて、どれだけ多くのものを学んだか、数知れないという。
15年目にして、初めてレギュラー0になった今、じっくり時間をかけて
何かをやろうと考えていた矢先、労音の向こう40回公演の仕事が入ってきた。
一年がかりで全国をまわる、いわぱ『縦断リサイタル』
しかも、この公演でのスタッフは初めて取り組む人ぱかり。
デピュー以来、切っても切れない仲の作(編)曲家・宮川泰に代り、
前田憲男が音楽担当。そして構成・演出は砂田実という具合。
その第一回公演が2月13目/東京・文京公会堂で行われたが、
開演前はいつになく、緊張したという。
しかし、ショーは『旅の宿』『夜があけたら』などをぐっと色っぼく(?!)こなしたり
『コンドルは飛んで行く』をはじめサイモンとガーファンクル・ナンパーをじっくりと、
そして、バイ・バイ・ラプメドレーなどをホットにきかせたりと、
全体的により大人っぱい、これまでとまた違った魅カを打ち出していた。
昨年あたりからクラブ出演なども多くなり、“可愛いビーナッツ”から、
次の段階へと踏みだしたようだ。
姉妹はこの4月で32才を迎える。
さて、51→41これは何でしょう?
実は二人の体重の変化なのだ。
デビュー当時のマルマル太った姿を思い浮べる人もいるだろうが、
なんと15年の間に約10sもスマートになったのだからオドロキ。
やせるビスケットを食べたり、一年間お米のゴハンを抜いたりの努力ももちろんしたが、
結局、いろいろ神経を使うようになり、またダンスをかかさずやったことが効果をあげたとのこと。
担当マネージャー→部長=義兄-では、これは?
渡辺プロの現M制作部長との関係である。
デビュー当時、二人の荷物を持ち、マネージメントに明け暮れていたM氏も今や制作部最高責任者。
そして昭和36年には実姉・千奈美さんと結婚して義兄になったという訳。
2→4→2ーもう、おわかりですね?
そう、ホクロの数。
姉のエミの両目のワキにあるホクロを真似て、妹のユミが付けボクロをしていた時代もあった。
そして、二年前からはそれまで一度も離れて暮したことがなかった姉妹が
初めて、世田谷区中町(姉と家族)と港区麻布二の橋(妹)に別居生活を姶めた。
15年。やはり長い。この間シングル盤は新曲の『指輸のあとに』で73枚目。
LPは最新の『ザ・ビーナヅツ・ダブルデラックス』で30枚(含・コンパクト盤)を数える。
初期の曲の歌詞はよく覚えているが、中間の曲はもう忘れたそうだ。
レコードといえぱ、昭和37年2月に出した『ふり向かないで』(岩谷時子作詞・宮川泰作曲)は
日本での和製ポッブスの走りともいえる曲。
それまで外国曲に目本詞をつけて歌っていたビーナヅツにとって新分野開拓にもなったし、
また作曲の宮川泰にとっても、作曲家・アレンジャーとして名を上げる端緒にもなった。
その後の『恋のパカンス』などと共に、このコンビによる目本製ポップスは大ヒットし、
我国の歌謡界での一つのエポックともなったのだ。
そして、忘れてならないのは国際的なスターとしてのビーナッツの足跡である。
昭和38年、『情熱の花』をキッカケにカテリーナ・バレンテの招きでウイーンのテレビショーに。
40年9月には西独のパパリア・プロ制作の正月番組にメインタレントとして出演。
これはヨーロッパ75ヶ国に一時間にわたり放送された。
翌41年2月にはアメリカの『エド・サリバンショー』に、
同年8月には『ダニー・ケイ・ショー』にと文字通り世界の檜舞台に躍り出たのだ。
「リハーサルに長い時間をかけること。ショービジネスの厳しさなどを学びました」
という二人だが、その本場・アメリカで昭和43年・民音主催のワンマンショーを開き、
サンフランシスコ、ロスアンゼルスなど五公演を満員にしたことは忘れられない思い出だという。
その後も海外での仕事がつづき、日本では数少ない国際的評価の高いタレントといえる。
「思えば高校の半ばから、今日まで青春を歌にかけてきた私たち。
その間、恋もしました。24才頃には本気で結婚を考えたこともありました。
でも、やっぱり歌を捨てきれなくて……」とユミ。
「よく長つづきの秘訣をきかれますけど、やはりいいブレーンに恵まれたことが第一です。
いろいろなプームにも敏感に反応しながら、先を先をと考えてくれるいいスタッフがいたからです。
そして身体が丈夫なこと。何より歌を愛していることなどでしょう。
この先も“宿命のデュエット”として一生懸命やってゆきますというエミの言葉にユミがうなづく。
この先、いつまでも素晴しい二重唱をきかせてくれることを願って---。
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デビュー2年目の歌うことが楽しくて仕方がない、と言った上り坂真っ最中のピーナッツ。
デビュー9年目でベテラン扱いされるようになった頃のピーナッツ。
15年目を迎え二人の決意も新たに新境地開拓を狙うピーナッツ・・・・・。
今だから言えること、と言うことがあると思いますが、当時、この15周年の記事を読んでも“引退”というニュアンスは伝わってきませんでした。
やはり私にとってザ・ピーナッツの“引退”はまさに“さよならは突然に”だったのです。
引退表明の記者会見では『最初から一生歌っていくつもりはなかった。良い状態の時にカッコよくやめたかった』と言っていますが、これは嘘です。
いろんな要素が絡み合い、結果『もう充分やりました』と言う結論に達したんでしょう。
御本人達が一番『作られたタレント』と言う意識を持っていたのかもしれません。
だからこそ、期待にこたえなければ、という使命感と、元々真面目な性格だったことが良くも悪くも『引退』と言う結論を急いでしまったのではないか、と思うわけです。
今の時代、ピーナッツが不安に感じていたような諸々の問題『色気』『ヒット曲』『年齢』などは全くと言っていいくらい問題ではありません。
そのまま歌い続けて欲しかったと思うのは世のファンみんなの思いでしょう。
現にあの頃共に活躍していた仲間たちがほとんど全員が現役と言うことからも、実力、根性(今時あんまり使わないけど(笑))、芸能界の仕事への執着心が違うんでしょうね。皆さん立派です。
そこにザ・ピーナッツが入っていないことがやっぱり淋しくてたまりません。
今このポジションにピーナッツがいてくれてたら・・・。
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