KICS-2301.2302
ザ・ピーナッツ・シングルス 恋のフーガ
kics-2301.2.jpg
★ザ・ピーナッツ・シングルスの第3集目は昭和39年1月の「悲しきカンガルー」から昭和43年6月の「恋のロンド」までの18枚のシングルが収録されています。
ただ、今回も昭和40年1月に「HIT」レーベルから出た2枚「二人の恋人は?・ヘイ・キャプテン」と「スーヴェニール東京・ハッピー・ヨコハマ」が収録されていません。海外向けにリリースされたものだとは思いますが、日本国内で発売されていたのだから、これもぜひ入れて欲しかったと思います。

1999年5月28日発売
キングレコード

DISC-1
  1. 悲しきカンガルー
  2. キャンディー・ムーン
  3. ジューン・ブライド
  4. 青空の笑顔
  5. ウナ・セラ・ディ東京
  6. マイ・ラブ
  7. 二人の恋人は?
  8. かえしておくれ今すぐに
  9. あなたの胸に
  10. かわいい小鳥
  11. 明日になれば
  12. 愛は永遠に
  13. シュガー・キャンディー
  14. ローマの雨
  15. 東京ブルー・レイン
  16. 恋のフーガ
  17. 恋のオフェリア
  18. 恋のロンド
DISC-2
  1. ノン・ムッシュ
  2. ドミニク
  3. ほほにかかる涙
  4. ポエトリー
  5. 知らなかった
  6. ブーベの恋人
  7. スーベニール東京
  8. ドンナ・ドンナ
  9. 私を愛して
  10. ブルーレディーに紅バラを
  11. 乙女の涙
  12. 花のささやき
  13. スパニッシュ・フリー
  14. 銀色の道
  15. しあわせの花を摘もう
  16. 離れないで
  17. 愛のフィナーレ
  18. 愛への祈り

いよいよ第3集目になりました。
 この時代は全米のヒットとやはりお得意のヨーロッパ系のカヴァーが目立ちますが、昭和41年頃からはオリジナルの歌謡曲の比率が高くなり「シュガー・キャンディー・スパニッシュ・フリー」を最後にカヴァー作品から離れてしまいます。これはやはりビートルズの影響があったと思われ、外国の曲はオリジナルで聴くというスタイルが定着し始めてきたからではないでしょうか。もちろん以前からも日本人のカヴァーとオリジナル・シンガーの両方が売れていたわけですから、なぜ、この頃からカヴァーされなくなったのでしょうか。

思うに、ひとつは先に上げたビートルズ。彼らの歌が日本語に乗りにくい音楽であったこと。とにかく世界中を席巻してしまったその影響力ははかりしれず、それまでのいってみればノーテンキな甘い言葉をさらにハチミツ漬けにしたようなトロケるポップスが急速に衰退してしまったという事実。カヴァー・ポップスを歌っていた歌手たちが歌う歌が無くなってしまったということで、海の向こうの最新の音楽を紹介してくれていた日本のアーティストたちをもう必要としなくなったのではと思うわけです。

それと前後して「レコード大賞」も関係あるのではないかと思います。
昭和34年に発足して以来、始めの頃こそ知名度も低く、大賞をとったからといってさしたる効果があったとも思えず、それより、紅白で名前を売り、地方公演で稼ぐという図式が定着していた歌謡界で、だんだんと「大賞受賞」という権威が音楽関係者の間に入り込んできて、なんとか取りたい、取らせたいとなってきたのではないでしょうか。ちなみに規約で「日本人による作品」というのがあったため、外国産の曲を歌っていた歌手たちは全く縁がありませんでした。たとえば昭和34年デビューの水原弘はロカビリー出身でありながら歌謡曲の「黒い花びら」でデビューし、第1回の大賞を受賞しています。ピーナッツはあれだけヒットを連発しながらはじめての受賞は昭和38年の「恋のバカンス」。(編曲賞)中尾ミエ、弘田三枝子なども今だったら当然なんらかの賞を受賞しても良いくらいだと思いますが、中尾ミエは無縁、弘田三枝子は昭和44年の「人形の家」(歌唱賞)まで待たなければならなかった。
越路吹雪の「ラストダンスは私と」は38年から39年にかけてポピュラーチャートを独走していたにもかかわらず縁がなく、40年に日本人による作品「ワン・レイニー・ナイト・イン・トーキョー」で歌唱賞受賞。(しかし紅白ではヒットした「夜霧のしのび逢い」を歌ってます)と、こういうことから歌手たちも自分のオリジナルを歌いたいという希望が増えてきたのではないでしょうか。
またポップス系の作品を作る作家も増えてきて、(宮川泰、中村八大、いずみたく、すぎやまこういち等)そういう流れになってきたというのも、カヴァーポップスの衰退の要因ではないでしょうか。

ただ、みんながみんな歌謡曲に転向して成功したわけではなく、ほとんどがこの時期を最後に第1線から退いています。残ったのはザ・ピーナッツと伊東ゆかり、弘田三枝子ぐらいでしょう。単発で当たった人もいますが。(森山加代子・白い蝶のサンバ)

昭和40.41年ごろはスイム・サーフィン・エレキと新しいサウンドも出てきて若い人達はそれに飛びつき、歌謡曲も多様化してきた時代でした。
ピーナッツが「ローマの雨」を歌っていた頃は和製フォークの元祖マイク真木の「バラが咲いた」、若大将加山雄三の「君といつまでも」寺内タケシとバニーズ、ブルー・コメッツなんかが活躍しました。

★昭和42・43年はグループ・サウンズの襲来がありましたが、わずか2年ちょっとのはかないものでした。そんな時期にも「恋のフーガ」の大ヒット、続く「恋のロンド」など、確実に新曲を出しつづけ、またヒットに結びつくということは実力と周りのスタッフ、ファンの支持があってこそだと思います。

この第3集はそんな時代背景を思いながら聴くと歌謡界におけるピーナッツの位置も見えてくるのではないでしょうか。カヴァーからオリジナルへの転向、そんななかで確かな位置をキープしていたピーナッツの歌声を聴いてみましょう。(なお、この時期にリリースしているアルバム「ザ・ピーナッツ・デラックス昭和42年」と「ザ・ピーナッツ・ゴールデン・デラックス昭和43年」には半分は外国のカヴァーを歌って、ピーナッツここにありというところを見せています。)


CD一覧へ戻る