DIE PEANUTS/SOUVENIRS AUS TOKIO

皆さんもどうにかしてこの解説の意味を知りたいと思っていたことでしょ。
どんなことが書いてあるの?
ドイツ人から見た“ザ・ピーナッツ”ってどんな印象なんだろう。
しかし、ドイツ語って・・・なじみがないし訳わかんないですよねぇ。
だから私もあきらめていました。

ところがそんな希望を「きたロク」さんが叶えてくださいました。
「きたロク」さんありがとうございました。
大変なご苦労お察しいたします。
皆さんも感謝して読んでくださいね。

尚、この日本語訳は、あくまで「大意」として大まかに綴っています。
完全な「日本語訳」ではありません。
そういうわけで元になった解説を書かれたWalter Hilbrechtさん、Bear Family Recordsにも特に許可を取っているわけではありません。
あくまで☆ピーナッツ・ホリデー☆内だけで「こんな意味のことが書いてあります」程度として捉えていただきたいと思います。
同様にドイツ盤シングルの各ページに載せている日本語大意もそんな意味で受け取っていただきたいと思います。

ですからここの日本語の訳を他に流用、転載、リンクを貼るなどの行為はどうかしないでください。
皆さん個人の楽しみとしてご覧ください。
どうかこの点よろしくお願いします。

***Souvenirs aus Tokio解説***

ザ・ピーナッツ−といえば、今たいていの人はおそらく最初にアメリカの有名な漫画(*1)のことを考えます。
しかし根っからのヒットソング・ファンなら、60年代の中頃ドイツ市場でも成功した、日本から来た、歌って踊る双子のデュオの記憶に結びつけるでしょう。

ザ・ピーナッツは1964年の終わりにドイツで最初のシングル盤を出しましたが、このとき日本で彼女たちはすでにスーパースターでした。
この時代、日本のエンタテインメント産業は非常に大きなブームになっていました。
日本の若者は何百年の間、伝統に縛られていました。
しかし、日本が西洋世界とのつながりを強めてきたために、この国はアメリカとヨーロッパの影響をますます受け入れるようになり、今や若者達は目新しくモダンなものなら何にでも熱狂していたのです。

日本のショー・ビジネスのプロデューサやマネージャ達はこのことをわかっていて、ティーンエージャーに向けて絶え間なく、ツイスト、ビートやその他流行のトレンドを
− ラジオ、レコード、そしてなによりもTVで − 提供していました。
日本でTVは、ヨーロッパよりも基本的に重要な役割を果たしています。
ドイツではおそらく、フル・プログラムの放送を行っているのは2局だけ(ARIとZDF)で、それに加えて、ときどき午後の遅い時間だけ放送する地方の「第3の」局があるくらいです。
これは日本の状況と比べると、ほとんど田舎のように見えます。
日本では6つの局が朝6時から翌日午前1時まで放送を行っており、そのうち2局はすでにカラー放送だったのです。

ザ・ピーナッツは18才ですでに自分自身のTVショーを週2本持っており、それに加えてゲストとして他の番組にも出ていました。
彼女たちのレコードは100万枚を売り上げていました。
その上、多数の生出演はさておき、次々と映画も撮っていたのです。
彼女たちの次元で(*2)、そのような経歴がアメリカのアーチストに与られることはあるいはあるかも知れませんが、ヨーロッパの場合にはほとんどないでしょう。

ザ・ピーナッツ −それは1946年4月1日、名古屋で生まれた(*3)伊藤日出代、月子の双子姉妹です。
その音楽の才能はすでに学校で音楽の先生の注目を引き、14才のときピアノの演奏で小さなレビュー劇場でデビューしました。
さらに、彼女たちはスカウトされて歌とダンスの徹底的な教育を受けましたが、これによってショーの仕事に対する準備ができたはずです。

勤勉さと根気で彼女たちはこの重要な職業教科を終了しました。
毎日彼女たちは12時間、ときにはそれ以上もの時間、猛練習を行ったのです。
しかし、それに耐えられることを証明し、トレーニングで多くを要求されても投げ出すことはありませんでした。
こうして、やがて必要なだけの教科が彼女たちの才能に付け加わりましたが、それはこの仕事をやっていく上で欠かせないものでした。


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(*1)スヌーピーとチャーリー・ブラウンの漫画。
(*2)原文はDimensionen、オンライン英訳もdimensionsだったので、
文字通り「次元」と訳しましたが、年齢または芸能歴のことを言っている
のではないかと思います。
(*3)「名古屋」はいいとしても1946年生まれというのは単なるミスプリント?

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しかし、その努力と苦労はすぐに報いられました。
彼女たちは日本の聴衆をうっとりさせたからです。
人気は急上昇し、予期しなかった広がりを見せました。
彼女たちは日本でショー出演者として、にわかにひっぱりだこになりました。

彼女たちの登場によって、伝統的な東洋のスタイルがアメリカを手本にした現代のパフォーマンスと結合されました。
そのために、彼女たちは若い人にも年配の人にも同じように人気を得たのです。
たいてい日本のアーティストが日本以外の国で人気を得ることはほとんどありませんが、ピーナッツはやがて国際的にも求められるようになりました。
その理由はたぶん、双子のデュオは注目を引きやすいからでしょう−とりわけ、それがステージで全く一致した動きをする、とてもかわいらしい女性である場合には。
その上に、彼女たちは完全なプロであり、見事なショーを見せていました。

国際的な市場に向けて、もっと簡単に人に覚えられやすくするために、彼女たちはエミ、ユミと名付けられました。
さてところで、どっちが誰なのか、注意してよく見ると2人のうち1人は眼の横のこめかみの下にほくろがあるので、分かります。
それ以外で区別をつけるのは難しいでしょう。

1963年にカテリーナ・ヴァレンテはツアーで日本に行き、そこでザ・ピーナッツと初めて知り合いました。
カテリーナ・ヴァレンテは思い出して言っています。
「すごく感じのいい女性で、とてもかわいかった。彼女たちは小さな馬車馬みたいでした。
というのは、日本では信じられないほど忙しく働かなければならなくて、長い時間の間に2本か3本の映画を同時に撮って、そのほかにテレビにも出演するのですから。
彼女たちは本当に小さな機械のように働いていました。」

カテリーナ・ヴァレンテは、ピーナッツを自分のバラエティー・ショーである「ボンソワール・カトリン」に出演させるために1964年のはじめにドイツに招き、
ディレクターのミヒャエル・フレッガーが、このアーモンドのような目をした2人の歌手を画面で一番よく見せるようにする仕事を担当しました。
その後すぐ、彼はもう一度彼女たちと一緒に仕事をする機会を得ました。
1964年に東京でオリンピックが開催され、この太陽が昇る国にドイツ人がもっと親しみを持つようにするために、フレッガーは「東京からのビッグ・ショー」を現地で製作しました。
この協力によってもまたザ・ピーナッツが知られるようになったことは明らかです。


放送の音楽監督は、ハインツ・キースリンクが担当しました。
映画音楽やTVの音楽の作曲家として有名なキースリンクはオーケストラのリーダーでもあり、ドイツのヒット曲市場に当時世界中から音楽関係者が出稼ぎにやってきていることをよく知っていました。
しかし、極東からの演奏家はどちらかといえば例外でした。
またキースリンクは、ザ・ピーナッツの少女のような声に独特の魅力があると考えたので、ドイツ語で録音することに決めました。キースリンクは2〜3曲作りましたが、
そのうちの「スーヴェニール東京(Souvenirs aus Tokio)」が最初のシングル盤として選ばれました。

販売戦略は当然、エキゾチックな要素に主眼が置かれました。
それは、単にレコードのジャケットに着物を着たザ・ピーナッツを載せただけではなく、歌にも日本の雰囲気が盛り込まれています。
そのような趣向(*4)は、その後のレコードにも使われます。
彼女たちは「ナガサキ・ボーイ」を称え、「フジヤマ・ムーン」を夢想し、「ハッピー・ヨコハマ」に人を招きました。
ただし、着物はすぐに最新のファッションに変えられました。

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(*4)原文はDesignです。ジャケットの写真だけでなく中身の音楽も
含めて、レコードの商品としてのコンセプトを言っているように思ったので、
「趣向」としました。
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ドイツ語で初めてのレコード製作を終えた後、ザ・ピーナッツは、ミュンヘンで「スマイル・イン・ザ・ウエスト」というTV番組のために撮影を行いましたが、この番組でザ・ピーナッツはデビュー・シングルを紹介しただけでなく、本物のショーのプロであるところを見せました。
再びディレクターを務めたミヒャエル・フレッガーは、このエンタテイメント・カクテルに、リル・バブス、ハイディ・ブリュール、シルヴィオ・フランチェスコ、ジルベール・ベコーなど、何人かの傑出したアーチストをさらに加えたのです。
番組全体は1965年1月に放送され、2〜3週間後、「スーヴェニール東京」はドイツの売り上げでチャートの1位となりました。

さらに、2枚目のシングルのスタートのために、最高の条件が与えられました。
すなわちザ・ピーナッツは、バーデン・バーデンで行われた「歌謡フェスティバル1965」の招待コーナーに招かれフレディー・クインやヨハネス・ヘースターズなどのスター達と並んで出演しました。
当然そこで新しいタイトルである「ハッピー・ヨコハマ」を紹介しましたが、これもハインツ・キースリンクの作品です。

会場の聴衆はザ・ピーナッツの歌に深い印象を受け、後で新聞は次のように書いています。
「この愛らしい日本からのゲストは熱狂の嵐を巻き起こした。
彼女たちはすでに世界のショー・ビジネスで「ピーナッツ」− お互いに南京豆のように似ているので − として、スターの一人に数えられている。」


やがて、最初のLPが発売されましたが、これは当然「スーヴェニール東京(Souvenirs aus Tokio)」というタイトルが付けられ、日本語の歌も何曲か入っていました。
たぶん、ドイツ語はこの2人にとってかなり難しかったからでしょう。

その間、東京で最も有名なこの双子姉妹はドイツでも大変な人気になり、TVで「ピーナッツ・ショー」というミュージカル・ポートレート(*5)が放映されました。
もちろん、この番組でもミヒャエル・フレッガーが再び演出を担当しました。
彼は、1966年に製作されたペーター・アレクサンダー・フィルムの「ベラミ2000」にも2人を(少しですが)登場させました。


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(*5)「musical portrait、原文はmusikalisches Portra"t」をそのまま
カタカナにしましたが、どんな形の番組かわかりません。
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その後、続けて定期的にシングル盤が発表され、たしかに注目を集めましたが、ヒット・チャート上位に上がることはありませんでした。
そこで音楽面でピーナッツの世話を続けていたハインツ・キースリンクは、当時有名だったヒット曲の作者を訪ねて回りました。
その中の誰かが、ピーナッツの新しいベスト・セラーを作る手助けをしてくれるはずと考えたのです。
最終的にキースリンクは、ヒット作曲家であるハンス・ブルームを選びました。
彼は聴衆の好みについてエキスパートであり、生き生きとした歌を1曲書きました。
この「バイバイ・ヨコハマ」という歌でピーナッツは「スタジオBからの音楽」に出演し、1967年9月にはヒット曲売り上げの上位に再びランクされました。
カテリーナ・ヴァレンテはピーナッツをもう一度自分のTVショーに招きました。
ピーナッツがゲスト出演者のウド・ユルゲンス、シルヴィオ・フランチェスコと一緒に歌った「ヒッツ・ア・ゴーゴー・メドレー」は、この番組のクライマックスの一つでした。
「ヒッツ・ア・ゴーゴー・メドレー」は、このショーの他の録音とともに、このCDに収められています。

しかし、その後もう1曲のシングルを出したあと、この東京から来た女性歌手はドイツのヒット・ソング・ファンに別れを告げることになります。
日本でのさまざまな制約のために、ドイツで活動を続けていくことに簡単には同意できなかったのです。
それに当然日本での仕事が優先されました。
彼女たちは日本で相変わらず高い評価を受けており、何百万も稼いでいました。
それに比べると「古き良きドイツ」での彼女たちの成功はむしろささやかなものに見えて、そのために時間のかかるドイツへの旅は結局やめることになったのです。

ようやく1971年の春に、ドイツのTV局ZDFが「サヨナラ・オオサカ」という日本のショーを放映したとき、ピーナッツはもう一度画面を通して戻ってきました。
もしかすると当時のヒット曲ファンの何人かにとって、レコード・キャビネットを探して「Souvenirs aus Tokio」をちょっとまたかけてみる機会だったかも知れません。

ヴァルター・ヒルブレヒト
ジーゲンにて、2003年4月

ハインツ・キースリンクに感謝します。

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以上です。
いかがでしたか?

ピーナッツのデビュー前から、日本国内の活躍、そしてドイツでの活動までよくまとめられているし、ピーナッツに好意的な書き方で、なんだかうれしい。
ドイツで活動を始めてから約40年後に現地でこうしたピーナッツの歌声をまとめたCDが発売されることに感謝したいと思います。
3年ちょっとの間をすごいスピードで駆け抜けたような活動でしたね。
でもとても濃く、凝縮された3年間だったと思います。
今の時代にあてはめると10年にもなるんじゃないかと言うくらい。
これは決して大袈裟ではなくホントにそう思います。

結局のところ、「これからは日本拠点でやって行きたい」と言うことになのでしょうね。
先の「エド・サリバン・ショー」や「ダニー・ケイ・ショー」出演後の会話で話していたように、アメリカやヨーロッパでやって行こうと思ったら向こうに住んでしっかり根を下ろしてやらないといけないと言うことなんでしょう。
でもピーナッツは日本でやって行きたかった、そう言う結論になったから外国の活動も一通りやって一段落ということでしょう。



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